「沖縄では自然体でいられるんです。身構えることも必要ない。そうしているうちに自分が何をしたいのかがわかってきました」
そう語る森田さんが就いた職業は琉球ガラス工房の見習いだった。「南の島でガラスを吹いて生活する」――なんとなくメルヘンチックな想像を掻き立てる職業だが、しかし、現実は厳しかった。最初に門を叩いたガラス工房はガラの悪い二十歳かそこいらの青年が工場長を勤めていた。怒鳴り散らしたり、鉄拳制裁などはあたりまえのようにある。その上、工房経営者の、沖縄県外からの移住者に対する差別もあった。精神的に耐えられなくなって辞めていく人が多いなか、森田さんは歯を食いしばって技術を身につけた。
「逃げ出したら終わりだと思いました」
彼女のその負けん気な姿勢はやがて一目置かれるようになるが、その頃、他のガラス工房で見習いを募集しているという情報を耳にした。その工房には沖縄県最大の美術展・「沖展」に作品を出展し、活躍する職人が複数いる。森田さんは工房を移った。
「生きているという実感がありました」
その頃を振り返り、森田さんは笑う。社会保険のない月収8万円の生活は貧しさを極めた。自宅から職場である工房まで距離があったため、ガソリン代も馬鹿にならない。気づけば赤字になることもよくあった。食事に事欠く状態で板チョコを少しずつ齧りながら一食分としたこともあった。見る見るうちに体重は減っていった。
「苦しいと思ったことはないんです。父が職人だったというのもあるんですが、収入の安定したサラリーマンになるとは思ってもいませんでした。手に職をつけるためには当たり前のことだと思っていましたね」
ピンチは必ずしもピンチではない、という天性の楽観主義も彼女の身を助けた。窮状を知った地元群馬の旧友から「救援物資」と称してしばしば食品が送られてくることもあった。そうしているうちに彼女は「吹き手」といわれる、吹きガラスの世界では花形のパートを務めるまでに成長した。
ガラスを加工するグローリーホール。1300℃以上の熱を持つ。 |