歴史の舞台となった通り、ローマ通り(Roman Line)。 |
当時はまだカナダが国家としてイギリスから独立しておらず、英国やスコットランド、アイルランドなどから多くの移民が、新天地を求めて続々とカナダへやって来ました。英国議会に公認された土地開発会社、カナダ・カンパニーを通して、多くの人々が比較的安価でカナダまでの航海チケットやカナダの土地を手に入れることができたのです。つまり、英国議会が国民にカナダへの移住を奨励していたということでしょう。
1815年から始まった、英国とアイルランドからの大規模移民
当時はまだカナダが国家としてイギリスから独立しておらず、英国やスコットランド、アイルランドなどから多くの移民が、新天地を求めて続々とカナダへやって来ました。英国議会に公認された土地開発会社、カナダ・カンパニーを通して、多くの人々が比較的安価でカナダまでの航海チケットやカナダの土地を手に入れることができたのです。つまり、英国議会が国民にカナダへの移住を奨励していたということでしょう。 |
|
アイルランドからの移住者、ドネリー一家
|
|
理屈や道理の通じない男、ジェームス・ドネリー
お金のなかったジェームス・ドネリーは、土地の所有者が祖国にいたのをいいことに、ローマ通り沿いの他人の土地に無許可で小屋を建てて開墾し、10年ほど住み続けます。貧しい移民の多かった当時は、このような実力行使もよくあったようです。
最終的にジェームスは、売買によって新たにこの土地を所有したパトリック・ファーエルと裁判で争いましたが、ジェームスが10年間住み続けて開墾した事実が認められて、一部の土地所有権を得ました。取り分が少ないと不満なジェームスと、購入したにも関わらず土地をジェームスに譲らなければならなかったパトリック。二人の間にトラブルが起こるのは、時間の問題でした。 ある日ジェームスは、酔った勢いの口論の末にパトリックを殺害します。すぐに逃亡するものの、2年後に自首。極刑を減刑されて、7年間の懲役となりました。
|
|
乱暴で野蛮な7人の息子たち
ジェームスには7人の息子(と娘1人)がいましたが、この息子たちが親に負けないほど乱暴で野蛮でした。
駅馬車ビジネスを家族で始めたときには、夜間にライバル社の馬車に火をつけたり、馬を滅多打ちにしたりなどはざら。そればかりか、兄弟で郵便局へ強盗に入ったり、他人の納屋に火をつけたり、誰かを殺したりと、それはそれは今日の私たちには想像できないような悪行を繰り返します。結果、町中の嫌われ者になりました。 そしてある日、我慢の限界に達した町の人たちは、計画的にドネリー家を襲います。そしてジェームスと妻、息子たちなど、計5人を殺害しました。巡査や牧師も関わっていたと言いますから、いわば町公認の殺人です。
|
|
今もさまようドネリー家の男たち?
ドネリー家5人の死後、塔のように立派な墓石が立てられましたが、それは誰かの手によって倒されました(それほど嫌われていたようです)。今も夜になると、ドネリー家の男たちがどこかの納屋に火をつけに行くのか、ローマ通りには馬の鳴き声や蹄の音が響くそうです。
|